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西方寺について

住職日記

14年前、私が教員生活を終える3月11日 明日の高校入試選抜試験の準備中に発生した。

テレビの映像から大津波が岸、町に押し寄せていく異常な状況が映し出されていた。

多くの尊い人命が失われ、今もその大きな被害が残っている。

私は数年後、仙台から被災地を訪ねた。現地の状況や被災された人々の声を聞いて、

辛く、苦しい思いをした。今もその思いが蘇ってくる。

 

朝日新聞の夕刊より

苦しくても 傷ついても 希望が 愛があると信じて

「 苦しくても傷ついても

あの日を生きたかった命を どうか大切にしてほしい

生きたくとも生きられなかった命があるのだから

そうかもしれないけれど 率直には受け入れられずに

生きてしまったことを悔やみ続けている

自然が惠みと災いをもたらすように

人間も慈悲深さと残酷さの二面があります

国内外を問わず、多くの支援には感謝しかありません

けれども、人間の恐ろしさを感じたのも確かです

死んでいい人間なんていない

本当にそういう世の中だったら

希望とか 愛とか きっと信じられるんだと思う

生きていていいんだよ

心が ぎゅーと締め付けられるんだ

生きてください 」

石巻市学芸員 高橋広子さんが自らの体験や被災者の証言にて書き上げた詩

津波やその後の火災の痕跡を残す唯一の震災遺構、

石巻市の「門脇小学校」に展示されています

 

震災で生き延び、苦しみ続ける。苦しみの先に希望を見出す。

そんな被災者が抱える複雑な気持ちを知ってほしい。考える余白を残し、

作品と対話ができる展示へ。障害のある人のこと、原発事故があった福島のこと、

親を亡くした子供たちのこと。問いかけながら言葉をつむいだ。

あの日、生き残ったことで、苦しみ続ける人がいる。

中には自らの命を絶った人もいる。それでも、あなたの存在に生きる意味を見出せる

ひとがいることを知ってほしい。

「生きてください」この言葉を伝えたい。

2025年3月11日 朝日新聞 夕刊より抜粋

 

 


2025年2月14日

2月10日 一年で一番厳しい季節、全国各地は大雪に覆われています。

両親・及び家族に祝福されながらこの世に誕生。

今年で〇〇年 多くの皆様のお陰により生かされている自分です。

ありがとうございます。感謝の気持ちです。

一番に伝えたい父・母は仏光となって私を見守っていることでしょう。

お祝いのメッセージ・ケーキ・お花・ビデオメッセージ ありがとうございました。

 

知人からのお祝いのメッセージを掲載いたします。

「 2月10日のお誕生日おめでとうございます。

旧暦では、1年の始まりとされていた2月。2月4日前後の「立春」がその日にあたります。

そのため、立春の前日を「季節を分ける日」という意味の「節分」と称し、

豆まきをして1年の穢れを払い清める風習が生まれました。

 

豆は「魔を滅する(まめ)」に通じ、無病息災を祈る意味があります。

また、まいた豆から芽が出ると縁起が悪いと考えられていたため、

いった大豆を枡へ入れ、神棚にお供えしてから使います。

 

一般的に、一家の主人が年男(女)が豆をまくものとされています。

豆まきの後は年の数だけ豆を食べると病気にならず、健康でいられると言われています。

年の数だけ食べられない場合は、

飲めば食べるのと同じだけご利益があるといわれている「福茶」いただきます。

福豆3粒に梅干しと塩昆布を加えて、お湯を注げば出来上がり。

年の数の福豆にお茶を注いで飲む場合もあります。

 

あなたが生まれた2月は、春が始まる月。

人々がさまざまな形で春を迎える準備をする特別な月なのですね。

今年も、素晴らしい、そして特別なお誕生日を、

お健やかに、そして楽しくお過ごしくださいませ、心からご祝福申しあげます。」

 

お祝いのメッセージありがとうございました。皆様のご健康を願っています

合掌

 


2025年2月6日

ウクライナ援助活動を熱心にされています、星野様から通信が送られてきました。

星野様は現地に行かれ、直接に現地の人々と交流を図り、援助活動を続けておられます。

現地の声「爆弾で目が覚めた。朝4時 爆発音で目が覚め、窓を開けたら家と車が燃えていました。すぐ、戦争だと 気づきました。 彼女のアパートは駅や軍の飛行場の近くだったので、まず狙われたのです。 隣の15階の高層アパートはミサイルで崩れ 私のアパートも上の階が吹く飛ばされました。生きた心地がありませんでした。」

赤松の中に村の役場はあった。2年前にロシアに占領された時、逃げずに立ち向かった村長に逢うことができた。道にはロケットの破片が転がり、林は焼けている。砲弾の発射音が轟く、村長は砲弾は気にすることはない。「着弾はこの先だからと、先を歩く。

ただしくれぐれも道からはみ出さないように」と注意を受ける。この辺りは砂地で道の脇に地雷の頭らしきものが見える。占領から解放されたが、まだ、手つかずの地域であった。冬はすぐそこまで来ているが、支援はなかなか届いていない」

西方寺では前住職がシベリア抑留され、一番西のウクライナに強制労働されました。

3年間の抑留生活ののちに無事に日本に帰国しました。そのウクライナではお怪我に会い、現地の人々の温かい看護によって命を救われました。そのおかげにより今回 ウクライナへの援助活動を続けています。まだまだウクライナの現状は厳しく、悲惨な状況が続いています。皆さんのウクライナへの援助活動へのご理解と、ご協力をお願いします。