1948年(昭和23年)11月27日舞鶴入港 前住職 私の父が3年のウクライナ・シベリア抑留から日本に帰国し、28日に懐かしき日本に上陸しました。
2022年11月22日 知人のYさんとKさんの案内にて妻と父の上陸した舞鶴を訪問しました。 父の抑留記 「命恵まれ 今を生きる」に記述によると
「27日の夜明け、シベリア抑留中に何回ともなく夢にまで見た祖国の景色が目の前に見いだされ、舞鶴港に入港した。岸壁には出迎えの家族たちが小旗、タオルなどを振って大勢の人達が出迎える姿をみて、感激の涙が頬を伝わり、九死に一生を得て、生きて帰れたことが嘘のような気がした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
検疫も終わり、やっと船をおりて一歩、一歩本土の土を踏むと、まさしく懐かしい日本に帰ってきたのだという、喜びや感動が心の奥底から熱くこみ上げてきた。・・・・・・
今までに、何回となく死に直面しながらも、御仏に見守られ、恵まれた命をいただき、帰国の夢を果たした。 こうして実現できたのは私の生涯において最も忘れることのできないもであった。この時の熱い感動は、現在84歳になった今でも、深く心の中に抱き続けている。」
27歳に召集され、3年間の抑留生活、94歳にて往生
「シベリアの夢をよく見た。夢の中で また、零下30度の厳寒の作業所へ行かなければならないのかと思い、気が付いたら、温かい布団のなかで寝ていて、ほっとしたことが何回ともなくあった」
84歳に抑留記を書いたのは
「平和な時代がきても あの抑留体験は生き残った者の務めとして、命ある限り語りつないでいかなければならないと今の私は思っている」
「舞鶴桟橋ではわが子や夫との喜びの再会、白木の箱に入った遺骨との無言の対面、そん な悲しみの光景が数多く繰り広げられていた。
あれから半世紀あまり、舞鶴港は当時の騒々しい様相と打って変わって今は鏡のように穏やかな海面を漂わせている。」
父は書物を記述す前にこの舞鶴を訪問していたのだと思います。
舞鶴に帰還したときの思い、その後 約50年後に訪れていた時の思い。
私は今、桟橋に立って、父の思いを振り返ると、「よくぞかえって来た、恵まれた命は尊いよ」という父の声が聞こえてきたように思った。鐘を力いっぱいに打ち鳴らした。
シベリア抑留された多くの人や家族の思い、二度とこのようなことが起こらないように、平和を願う思いが鐘の音となって舞鶴港に響いていた。
海軍記念館
舞鶴引揚げ記念館
シベリア抑留での厳寒な住居。丸木小山での生活
夏服に一枚の外套のみにて夜をすごした。
抑留中の食事風景・一番の困った問題
抑留中の服装・夏の兵隊の服と一枚の外套・これで
零下30度の厳寒に強制労働。多くの人が食料難と
厳しい労働と寒さために亡くなった。
父がナホトカから山澄丸にて帰国。真ん中の船
貨物船に約2000人~3000人の人が乗っていた
舞鶴では市民の温かいもてなしが帰国者をむかえた